29号 東京は蕎麦、関西はうどん その1 (2008/2/22)
冬から春へ、季節は日に日に移っていますね。朝晩の風はまだ冷たいけど日差しはもう春ですね。

さて蕎麦さかいのメルマガ、少しご無沙汰いたしましたが、今回は久々のウンチク編。「東京は蕎麦、関西はうどん」はなぜそうなんだろうか、というテーマでお送りいたします。

蕎麦さかいにいらっしゃるお客様とお話をしていて私が関西出身だとわかると、決まって「おや関西はうどんなのに、どうして蕎麦なんですか?」と聞かれます。「実は家内が信州なもので」と答えるのですが、この、東京は蕎麦関西はうどんという図式は相当強固なもののようです。

実際に私、小さい頃家で蕎麦を食べた記憶はあまり無いです。うどんはよく食べましたよ。日曜日のお昼は冬はうどん夏は素麺が定番でした。蕎麦と言えばそれこそ年越し蕎麦くらい。そしてそれは必ず温かい蕎麦でした。

冷たい蕎麦を食べた最初の記憶はと言いますと、中学に入ると学校に食堂がありまして、そこにざる蕎麦というメニューがあったのが最初です。なんとなく大人の雰囲気がして、放課後などによく食べました。今でもその味を時々懐かしく思い出します。
でもそれは、麺は色のついた細うどん、つゆは甘ったるくそこに練りわさびをドバッと入れてという代物で、正直あまりうまいものではありませんでした。

ですのでそれ以降学生時代から社会人に至る長い間、私にとって蕎麦といえばもっぱら立ち食い蕎麦。短時間で手軽に腹を満たすものでした。

それが一転して蕎麦のうまさに目覚めたのは、結婚して妻の実家で食べた蕎麦、これがうまかったんです。蕎麦というのはこんなうまいものなんだということを初めて知りました。いえ、特別なものではなくて、近所の小沢製麺所というところで作って売ってる普通のものなんですが、さすが信州、味も香りもホンモノなのです。信州出身の女性と結婚してなかったら、今でも立ち食い蕎麦しか食ってなかったかもしれません。

おっと、今日は私の蕎麦遍歴の話ではなくて、東京は蕎麦で関西はうどんという話でした。すみません。

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そもそもうどんと蕎麦では、その歴史の長さがかなり違います。

小麦の粉を材料にした麺というのは、古代から存在しました。石毛直道さんの「文化麺類学ことはじめ」によると、中国には後漢時代から「索餅」というものがあり、それが日本には遣唐使によって7世紀頃に伝えられたであろうということです。この索餅というのは和名で「むぎなわ」とつけられていることからみて麦で作られた麺類であったことは間違いないようです。ただし、平安時代の「延喜式」という書物に載っている製法によると今日の素麺や稲庭うどんのように伸ばして作るタイプものであったようです。現在のうどんと同じく包丁で切る製法で作られる小麦の麺が登場するのは鎌倉時代か室町時代だろうと言われます。

しかしそのうどんも、現在のような一般庶民も気軽に食べられるありふれた食べ物だったわけではありません。というのはまず小麦そのものが日本ではあまり栽培されなかったのです。というのも小麦というのはそのままでは食べられず、粉にしなければなりません。ところが驚くことに穀物を粉にするための石臼というものが民衆に普及するのは江戸時代も中期以降のことだそうでして、それまでは木の臼と杵で搗いていたのですからとても効率が悪かったのです。そして苦労して取った粉を今度は水で練り、延して麺にするという作業を経て、初めて麺が食べられるわけで、庶民はそのような余裕も技術も道具も持たなかったからです。

考えてみれば米という作物はそのまま煮て食べられて、おいしいし栄養も豊かだから、そんな苦労と手間をかけて麦を食す必要はなかったのですね。

一方蕎麦のほうは、蕎麦粥や蕎麦がきのような形では食べられていましたが、麺としての蕎麦、いわゆる蕎麦切りが登場したのは、16世紀の終わり、戦国時代の頃であったことは、メルマガ15号に書きました。もう一年前になりますね。こちらです。
http://soba-sakai.com/mlmg/melmaga-15.html

ですから、麺類としてはうどんがお兄さんで蕎麦はかなり年の離れた弟ということになり、江戸時代も初期の頃はお兄さんのほうが圧倒的に幅をきかせていました。

たとえば1643年(寛永20年)に出版された「料理物語」という料理書の走りのような書物には麺類の章があって、13種類もの麺類の製法が載っていますが、1番目に書いてあるのはうどん。蕎麦切りは9番目にようやく出てきます。また万治年間(1658〜61)に著された「東海道名所記」には「よつや(現在の辻堂)うどん・そばきりあり」をはじめ、静岡県、愛知県、滋賀県などの各宿場で麺類が名物だと記されていますが、いずれも「うどん・そば切り」となっているそうです。また1686年(貞享3年)に幕府が江戸市中で出したお触書に「饂飩蕎麦切その他何によらず火を持ち歩く商売」を禁ずるとあり、火事の予防のために屋台営業を禁じたわけですが、ここでもうどんが先に来ています。

つまり江戸時代の前期にはまだ江戸は蕎麦で京大阪はうどんなどという図式はなく、江戸の町でも主流はうどんであったのです。

これがなぜかといいますと、蕎麦切りの歴史が浅かったことが一番でしょうが、この頃の蕎麦切りがまずかったせいではないかという説もあります。何しろ石臼製粉の技術がまだあまり発達していなかったのですから、蕎麦粉には蕎麦殻がいっぱい混入していたことでしょう。蕎麦殻って、あの黒い枕に入れるやつですからね。あれは人間には消化できません。そのような粉で作った蕎麦は食べるとガシガシしてまずいものです。

またその頃は蕎麦粉より小麦粉の方が高級食材でしたし、当然値段も高かったのです。現代では蕎麦を安く作るために小麦粉を入れますが当時は逆だったのですね。蕎麦はうどんより一段低い、いわば下賎な食べ物とされていたようです。

そんな蕎麦が、いろいろと改善の工夫を重ね、徐々にうどんと並んで江戸市民の支持を得るようになるのが1700年頃、そしてとうとう、うどんを抜いて江戸における麺類No.1の座に躍り出るのは、江戸時代も中期のおおよそ1750年頃のことでした。

この鮮やかな逆転劇は江戸だけで起こり、京大坂はもちろんのこと関東近県でも起こりませんでした。いったいそこに何が起きたのか。
長くなりましたので続きは次回。


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