15号 蕎麦のルーツのお話 (2007/2/27)
こんにちは、蕎麦さかいです。いかがお過ごしですか。
もう沈丁花が香り始めました。早いですねえ。今年は桜も早そうです。

さて今日は、ちょっと趣を変えまして、蕎麦のルーツというお話をさせていただこうかと思います。蕎麦というのは私たち現代の日本人にとって大変身近な食べ物ですが、これがいつごろからどういう変遷をたどってこうなってきたのか、そういうお話です。

ソバの原産地は中国雲南省あたりということになっていますが、これがいつ日本に伝来して作物として栽培されるようになったのかは、はっきりいたしません。縄文時代の地層から花粉が出たという最近の研究もありますが、一般には米や麦よりも後の5世紀のことだというのが定説です。そしてソバはずーっと長い間、穀物の中ではあまり重要でない、軽んじられた存在でした。悲しいことに五穀にも入れてもらえず、お年貢にもならず、米の作れない、土地のやせた山間部の作物として、あるいは凶作で米ができないときの救荒作物として、細々と作られていたものでした。

こんな、パッとしないソバが、一躍もてはやされるようになるのは、なんと言っても「ソバキリ」の登場によってです。ソバキリというのは、私たちが今食べている、麺になった蕎麦のことです。

私たちは蕎麦と言えば麺を思いますが、それ以前のソバの食べ方は、湯で捏ねて蕎麦がきにするとか、水で捏ねて団子にして煮るとかでした。今でもそういう食べ方は残っていますよね。時々テレビなどでも見たりします。いずれにしろそれは貧しい農村の食べ物だったわけです。それが、薄く延して切って麺にする技術が発明されるやいなや、京大坂や江戸という都会にも進出し、フード界の表舞台に登場するのですねえ。さてそれではそのソバキリが発明されたのはいつ頃のことか、これが今日の問題です。

ソバキリという語が初めて文書の中に出てくるのは、長い間、近江多賀神社の社僧である慈性(じしょう)という人の日記がそうであるとされてきました。慶長19年(1614)2月3日、当時慈性は江戸に勉強に行っていたのですが、「常明寺というお寺に行き、そこから仲間と銭湯に行ったのだが、えらく混んでいたのでやめて戻ってきた。ソバキリを振舞われた」とサラっと書いているのです。1614年といえば大阪冬の陣の年ですから、江戸も初期の初期。この頃にはすでに江戸の町には蕎麦切りがあったということなんです。余談ですが、ちなみに銭湯というのもこの頃江戸の町で出現して急速に流行りだした、当時のホットスポットだったんです。

一方、蕎麦切りの発祥の地は信州だという説があって、いろんなところにそう書かれているのですが、有名なのは芭蕉の門人森川許六がまとめた風俗文選(1706)の中に「蕎麦切りというのは元々信濃の国、本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」というのがあります。本山宿というのは江戸から中山道をずーっと行って塩尻の少し先、木曾に向かう途中です。しかしこれらはみな後世の聞き書きであって、直接の証拠ではない。

とそこに、平成4年のこと、長野市の郷土史家関保男さんが、長野県木曽郡大桑村の定勝寺というお寺の古文書の中に、「ソバキリ」の文字があることを発見されたのです。同寺では、天正二年(1574)に仏殿の修理を行ったのですが、その落成祝いに寄進された品物が書いてあり、中に「振舞ソハキリ 金永」とあったのだそうです。村の金永さんという人が蕎麦切りを持ってきて振舞ったということです。

これは一大発見でありまして、今のところ、これが史料に表れた最初のソバキリ、蕎麦のルーツであります。やっぱり、信州蕎麦というのはダテではありません。木曾、塩尻、このあたりの山深い信州の地で生まれ、中山道を通って江戸に伝わっていったのでしょう。

この蕎麦のルーツ探しという話は大変面白いのですが、それに加えて私が感動しますのは、ソバキリというものがその最初から、お祝いの食べ物だったということです。貧しい救荒作物であるソバが、蕎麦切りになったとたん、おめでたい食べ物に一大変身を遂げたのです。これはすごいことです。

これがなぜかというと、もともと麺というものが、ハレの日の高級なご馳走という性格を持っていたからでしょう。蕎麦切り発明以前の麺というと、うどんや素麺ですが、庶民が普段口にできるものではなく、お正月や祝い事の時のご馳走でした。なぜなら小麦自体が少ないうえに粉に挽いてまたそれを麺に加工しなければならない。米や雑穀がそのまま煮て食べられるのと比べて、麺はとっても手間のかかる食べ物だったのです。

その高級料理であった麺が、貧しい庶民の味方であるソバで出来る、これはなんとうれしい発明であったことでしょう。以来蕎麦は、庶民のハレの日のお祝いのご馳走として、我々の祖先たちのお腹とそして心を豊かにしてきたのです。婚礼などの宴の締めくくりには蕎麦。雛蕎麦のように年中行事に組み込まれたりもしました。月末の締め日に食べる晦日(みそか)蕎麦は年越し蕎麦となって現代にまで受け継がれているのです。蕎麦というものが、なんとなーくうれしい、ちょっとうきうきする食べ物であるのは、私たちの血の中にそういう民族の記憶が埋め込まれているからに違いありません。

このようなことを力説しましたのは、蕎麦さかいのめざしているあり方が、まさにこのハレの日の食べ物としての蕎麦、だからです。普通の蕎麦屋の天ぷら蕎麦も蕎麦、駅前の立ち食いも蕎麦、蕎麦にはいろんな顔がありますが、蕎麦さかいの蕎麦を召し上がるのは、皆様のハレの日であっていただきたいというのが私どもの願いです。

ご家族や気の合ったお仲間と誘い合わせて日をセッティングし、リビング蕎麦にいらしてくださるお客様。休日に宅配蕎麦を取り寄せて「今日はお父さんが蕎麦を茹でるぞー」と家族で楽しんでくださるお客様。皆様にとってそれが、ほんのちょっぴりハレの日であっていただければ、こんなうれしいことはありません。そのささやかなお手伝いができれば、そして喜んでただければ、それが一番の楽しみです。

今回もお読みいただきまして、ありがとうございます。これからもどうぞ蕎麦さかいをよろしくお願いいたします。


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