30号 東京は蕎麦、関西はうどん その2 (2008/3/25)
いよいよ桜がほころび始めましたですね。今日は春本番の陽気です。

前回に引き続き、東京は蕎麦、関西はうどんという話題に取り組みたいと思います。

ちょっと復習をいたしますと、現代では常識になっている「東京は蕎麦で関西はうどん」というのは江戸時代中期までは決してそうではなかった、というのがこのお話の第一のポイントです。京・大阪はもちろん江戸の町でも麺類の主流はうどんや素麺や冷麦であって、蕎麦は従であったのです。

なぜかといいますと、蕎麦切りそのものがまだあまり普及してなかったというのが第一の理由です。メルマガ15号に書きましたように、1574年に木曾のお寺で仏殿修理の落成に際して寄進されたという記録が、現在のところの蕎麦切りの初出であります。芭蕉の門人森川許六という人も「蕎麦切りといっぱ、もと信濃の国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」と書いておりまして、蕎麦切りはおそらく16世紀後半の戦国の頃、長野県の木曾から松本にかけてのあたりで発祥したものと思われます。

江戸時代初期にはこれが徐々に伝播して江戸の町にも伝わってきたのですが、それもゆっくりしたペースだったのでしょう。何しろ蕎麦の産出量はそれほど多くなかったはずですし、米も麦もできないところで作る貧しい作物でしたから、わざわざ江戸まで運賃をかけて運ぶだけの経済的合理性もなかったに違いありません。それに最初の頃の蕎麦切りは決しておいしいものではなかった。蕎麦殻まで挽き込まれた粉で作った、黒くボソボソで太く短いものでありました。

この蕎麦がうどんを抜いて江戸の町で麺類の主流になるのはそれからざっと150年以上後のこと。ですから江戸時代260年の半分以上はお江戸もうどんが主流だったのです。

一方、初期の江戸の町というのは埋め立てをはじめとする造成工事に継ぐ造成工事の町でした。その工事におそらくたくさんの人が駆り出されたことでしょう。出稼ぎに来て飯場で寝泊りしながら都市づくりを支えるというのは現代まで変わらぬ構造なんですね。蕎麦の最初の姿は、こういった人が手軽に腹を満たすためのものだったのでしょう。考えてみれば今日の立ち食い蕎麦というのは、この蕎麦の原型を今に伝えるものなのなのです。

また、夜鳴きそば、これは現代ではラーメンになっていますが、その原型もかなり早期に出現しています。貞享3年(1686)には「饂飩蕎麦切その他何によらず火を持ち歩く商売を禁ずる」というお触れが出されており、屋台の蕎麦が出没していたことがうかがえます。これはその後「夜鷹蕎麦」と呼ばれました。夜鷹というのは私娼のことです。夜鷹が食べるからか、夜鷹の客が食べるからか、いずれにしろあまり上品なものではなかったのです。

蕎麦屋らしきものも徐々に出てきたようで、四谷伝馬町に太田屋定五郎の「馬方蕎麦」というものがあり、安くてボリュームがあるので四谷御門を出入りする馬子たちに人気があったという話や、浅草に「正直蕎麦」が商いを始め、浅草寺境内に葦簀張の店を出し、戸板の上に黒椀に盛った蕎麦切を売ったが値が安くうまかったので名物のひとつに数えられたという話が残っています。こちらもまあ、露天に毛のはえたようなものであったようです。

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このように初期の頃は、安直であまり上品でない食べ物だった蕎麦ですが、江戸時代が始まって100年が過ぎて18世紀に入りますと、少しずつ少しずつ地位を高めていきます。

享保年間(1716〜1736)に新見正朝という人が昔話を書いた「八十翁疇昔話」という書物に、「寛文辰年(1664)、けんとん蕎麦切といふもの出来て下々買ひ喰ふ。貴人には喰ふものなし。近年は歴々の衆も喰ふ。結構なる座敷へ上るとて大名けんとんと云ふて拵へ出す」とあり、1700年ごろを境にだいぶ風向きが変わってきたのがわかります。また彼は「延宝(1673〜80)以前には、武士たるものの食べるものではなかった」とも述べているそうです。

武士たるもの、と言えば正徳2年(1712)、病床の新井白石を将軍からの見舞いの上使として小姓役の村上市正が訪れた際、使者の口上が済んだ後「蕎麦切」をすすめたという記録が残っているそうです。儀礼関係にきちんとしていたはずの白石が上使をもてなすのに、蕎麦が用いられるようになっていたというのがミソです。

また1750年頃に書かれた「反故染(ほうぐぞめ)」という書物には、「享保の頃は饂飩蕎麦切菓子屋へ誂へ、船切りにして取り寄せたり。其後、麹町へうたんや(瓢箪屋)などと云ふ慳貪屋出来、蕎麦切ゆでて、紅殻塗の桶に入れ、汁を徳利に入れて添来たる。」とありまして今日の出前の元祖も出現していました。白石が取り寄せたのも、このような立派な風体だったのかもしれません。

ちなみにこの麹町の瓢箪屋は池波正太郎の鬼平犯科帳にも登場するそうです。こういう有名蕎麦屋も徐々に増えてきました。ざる蕎麦の伊勢屋というのも有名でした。「増補江戸惣鹿子名所大全」という当時のタウン誌には「笊蕎麦・深川州崎・伊せや伊兵衛 小さき笊に入手出す故、笊そばと云ふ。白くいさぎよし」とあります。

「白くいさぎよし」。これは重要な言葉です。この「白い蕎麦」というのは、当時の江戸の人たちの心にぐっと来るものがあったのですね。まさに18世紀前半のこの頃、蕎麦はそれまでの黒くて短くてボソボソしたものから、だんだんに、白くて長くつながったものになってきたのです。

それを可能にしたのは二つの技術革新でした。一つは小麦粉をつなぎに使うようになったことです。当時蕎麦より高価だった小麦粉を混ぜてでも、蕎麦を長くつながったおいしいものにしようという、蕎麦のグレードアップ戦術です。もう一つは「引き抜き」を作るようになったことです。抜きというのは蕎麦の実から蕎麦殻を取り去った、いわば脱穀した蕎麦のことです。抜きにしてから石臼で挽きますと、黒い蕎麦殻が混入しない白い蕎麦粉ができるのです。

18世紀前半にはもう一つ、蕎麦にとってとても重要な革新がおきました。それは、蕎麦つゆに醤油を使うようになったということです。
それまでは垂れ味噌と言いまして、味噌に水を加えて煮て布袋に入れて濾したものですが、これに鰹節の粉や大根おろしを加えていました。醤油というのは大変高価で、蕎麦ごときに使えるものではなかったのです。

というのも醤油は関西でしか作れず、船で江戸に運んでくるいわば輸入品(下りものと呼ばれました)だったからです。ところがこの頃になると関東でも銚子で醤油の醸造が始まりました。これは地回り醤油と呼ばれ、品質はまだまだ下りものには劣ると言われながらも、徐々に江戸の庶民に浸透していきました。こうして醤油を使えるようになって、俄然、蕎麦つゆもおいしくなってきたのです。

これらの技術革新により、蕎麦は徐々に徐々に食べ物として洗練されたものに成長していきました。
その成長を牽引したのは当時の外食産業の先頭を走っていたであろう蕎麦屋たちです。彼らは競って商品開発を行い、またいろいろなキャッチフレーズ(名目といいますが)を掲げてそれを宣伝しました。伊勢屋のざる蕎麦もそうです。「戸隠そば」のような産地を示すもの、錦手の伊万里焼の器に盛るというので「錦そば」、白さを売り物にした「しらいと」など、さまざまな名目が考案されました。屋台でさえ軒に風鈴をつるして爽やかさと清潔さを演出した「風鈴そば」というのが出現したくらいです。

その背景には、それら蕎麦屋のさまざまな工夫を支持し、それにお金を払うだけの余裕を持った町人層が出現し、購買力をつけてきたことがあります。そうした時代の動きを先取りしたのが、三井財閥の創始者三井高利の開いた呉服屋、越後屋(三越の前身)です。それまでの呉服屋が大名・公家などの特定顧客相手の商売をしていたのに対し、彼が初めて店売りで不特定の一般顧客に現金(現銀ですが)商売を始めたというわけです。

このような時代背景とともに、蕎麦は江戸の新しい市民層の支持を得て一定の地位を獲得していくのです。その集大成と言えるのが1751年に書かれた「蕎麦全書」という日本で初めての蕎麦の専門書です。蕎麦の産地や蕎麦粉のこと、蕎麦の作り方や茹で方、そばつゆの作り方や薬味について、さらには江戸市中の蕎麦屋の屋号や有名店の消息など、多くの貴重な解説を残してくれています。これによって、当時の蕎麦がどういうものであったのかがかなり良く分かるのでご紹介したいのですが、今回もまた大変長くなりましたのでこれくらいにいたしまして、次回に続くということにいたします。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。


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