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22号 ふるさとは 遠きにありて・・・ (2007/8/21) | ||
暑さが続きますが、お変わりありませんか。 私は夏生まれであるせいか、暑さは苦にならないといったらウソになりますが、「暑い暑い」と言いながらも夏は大好きです。 夏は誕生日に始まり、大文字で終わるというのが、子供の頃の実感でした。 私の誕生日は7月22日。ちょうど梅雨が明けるころであり、何よりも夏休みの始まるのがこの頃。 そして京都の大文字が8月16日。これを過ぎると少ーしずつ暑さが減じ始め、海にはくらげが出始め、なんとなく子供心にもあはれを感じました。 いや正直言うと、その頃になると、ぐずぐずして進んでいなかった宿題が重く心にのしかかってくるからでもあります。 今年は大文字はとっくに過ぎたというのに、まだまだ暑さが続いていますね。 私的にはうれしいんですが、皆様、もうげんなりという感じではないでしょうか。でも8月もあと10日。そろそろピークを過ぎることでしょう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− さて、今日はこの夏一番のトピックス、高校時代の恩師の還暦祝い演奏会のお話をしたいと思います。蕎麦屋には全然関係ありませんですみません。 その先生は音楽の先生で、私が西宮にある甲陽学院高校に入学した時に、音楽大学を出られて新任の音楽教師として赴任されました。 そして音楽の授業を受け持ってくださったのはもちろん、グリークラブの顧問として熱心に指導して下さいました。 メルマガ20号でお話したとおり、これが私にとって初めての合唱体験。 先生にとっても初めての教師生活。 お互い、新鮮でした。 あの頃は毎日放課後に練習したんですね、考えてみれば。 音楽室は校舎の一番端の部屋で、すぐ横を阪神電車がガーッと走っていました。 練習していると、六甲の山々に傾いた夕日が部屋に差し込み、先生の着任を機に学校が用意した白いピアノを赤く染めたものです。 夏休みには合宿もしました。1年生の時は海辺の民宿で、2年生の時は山のお寺(三田市の東光山花山院)で。先生ももちろん一緒に参加してくださいました。 コンクールというものにも初めて出ました。あの独特の緊張感は今でも覚えています。 結果は・・・? 覚えていたい結果ではなかったようです。 先生はただの音楽教師ではありません。学生時代から日本テレマン協会テレマン室内合唱団に所属され、現在に至るまで最重鎮メンバーとして合唱団を率いておられます。 声を荒げて怒られるようなことはありませんでしたが、音楽に対しては常に厳しく、細かいことも妥協されない先生でした。 そういう、いわば合唱の専門の先生に、最初に合唱音楽を習うことができたのは、本当に幸せだったと思います。 その頃先生は新婚さんでした。僕ら男子校の高校生どもは、あつかましくも先生のお宅にお邪魔して大いに珍しがったものです。 美人で美声の奥さんも同じテレマン合唱団。僕らのことを弟たちのようにかわいがってくださいました。 それ以来37年間、先生の指導のもと、甲陽グリークラブは連綿と続いて来ました。 1学年の人数はおそらく平均10名はいないでしょうが、それでも300名を超える、先生を中心とした甲陽グリー同門の志がいるわけです。 その代々のOBの有志が集まって、今年なんと還暦を迎えられた先生のお祝いをしようと、演奏会が企画されたのです。 私ももちろん、何をおいても本番だけは、と参加しました。 最長老の私たちの学年から始まって、各世代から万遍なく集まり、現役高校生も入れて総勢80名。 演奏会は4ステージの構成で、 第1ステージは現役が黒人霊歌、 第2ステージはオールOBで富士山を、 第3ステージはヤングOBでフォスター、 そして最後第4ステージはOB現役合同で愛唱曲より。 私は第2ステージと第4ステージで歌いました。 現役はうまかったですねえ。感心しました。今の子はリズム感がいいですねえ。声も良く出ていました。 ディープリバーなんか難しいんですけどねえ、ハーモニーもきちんとしていて、上手でした。 最後の合同ステージでは、私たちも現役バリバリの15,6歳の高校生と並んでステージに乗りました。 考えてみれば、この子達のお父さんは、おそらく私よりお若いでしょうからね。その年の差を考えると、感慨深いものがあります。 それに、OBのほうも、多くは初めて会う後輩たちで、もちろん一緒に歌ったことなどないわけです。 この、お互いは見も知らない、30数年の年代の開きがある80名の男子が、1人の先生のもと、同じクラブで歌ったということだけで、きちんとつながっている。 気持ちが、心が、つながっている。歌ってみると、どこかでぴったり、合う。 これは、感動ものでした。 先生の、一つの音も絶対にいい加減にしない、厳しくも暖かいタクトのもと、演奏が始まりました。 その前のステージで、OB仲間の指揮で富士山を好き勝手歌っていたのとは打って変わって、研ぎ澄ました、細やかな神経の行き届いた音がします。 前日の練習でも直前の練習でも、かなり厳しく要望されたことに、一生懸命こたえようと、皆の気持ちが一つになっている音です。 この瞬間、先生を中心にして我々全てのメンバーをつないでいる強い絆が存在するのを感じました。 これは何の絆なのでしょう。 もちろん先生の絆であり、歌の絆であります。 しかし究極的には、甲陽グリーという「場」の絆なのでしょう。 一つの「場」が、そこに生きた人間を、時間を超えた絆で結んでいる。 僕らは幼い時代の純粋なエネルギーを一生懸命注ぎ込んだ。そしてここに、今もそうしている子供たちがいる。 すべての曲が終わって、最長老の私と現役代表から、先生に花束を差し上げました。 そしてアンコールの「いざたて戦人よ」を歌い始めた時、思いがけず、声が詰まって一瞬歌えなくなったのです。 この歌は文字通り闘いの、元気の良い歌ですから、こんな歌で・・・、と自分でもちょっとおかしかった。 でもそのおかげで、最後の「学院歌」は大丈夫でしたが。 演奏会が終わって、打ち上げには参加せず、私は東京に戻りました。 もちろん蕎麦屋の仕事があったからということもありますけれど、ステージ上での感動をそのままにしたいという気持ちもありました。 駅のベンチに座ってふと目の前を見ると、初めて来た駅なんですけれど、その風景はどこか懐かしい。 電車に乗ってぼーっとしていると、周りの人の話し声も、車掌のアナウンスも、どこか心にしっくりとはまるのです。 ああ、これがふるさとなのかなあ。 鮭が、生まれた川に戻って産卵して一生を終えるように、死ぬる時は・・・ などと、ふと思ったりしました。 いえいえ、本気ではないですよ。 なんといっても今、家を新築中ですから。 まだこれから20年はここで蕎麦屋をやるつもりです。 今回も長くなってしまいました。最後までお読みいただいてありがとうございます。 今回は、何人かの方のアドバイスを受けまして、細かく改行してみました。 このほうが見やすいでしょうか。 ご意見をお寄せいただければ幸いです。 |
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